遠慮は貧乏人の持ち物

彼女欲しすぎて出会い系をやっていたら、なぜか、元webエンジニアで現フリーランスコンサルタントをやっている方に会うことになった。その方をMさんとここでは呼ぶことにする。 Mさんに会ったのがちょうど昨日だったので、いただいた話をまとめる意味で記事に残して行く。

僕はMさんに会うのが正直怖かった。「いまの自分の浅い知識じゃ、Mさんと対等に話せない」「僕に会う時間が無駄と思われるんじゃないか」 そういった思いが頭のなかをめぐった。 しかし、自分の数百、数千歩先を行く人に相手してもらえることなんて、滅多にないと思い、会いにいった。それとMさんが単純にタイプだったし。

その中でいただいた一言がこの「遠慮は貧乏人の持ち物」である。

自分のためになるなら、どんな遠慮もすべきではない。嫌われることがあっても得たいものがあるなら図々しくチャンスを取りにいけということなのだろう。

思うと、僕が尊敬する同僚や先輩もみな遠慮をしない。いままで自分にとって雲の上の存在であるような人たちと話す機会があっても、僕は怖くて端で突っ立っていただけだった。しかし彼らはそんな人でもガツガツ話をしにいく。社交辞令だろう「今度焼肉おごるよ」という話でも遠慮なく連絡をとりにいく。自分から相手に何も与えられなかろうと、気にせず得たい知識を絞り取りに行く。 恋愛でもそうだろう。チャラいやつがモテるのも遠慮せずにガツガツからみに行くからだ。結果嫌われようが、得られるものも自然と誰よりも多くなる。 図々しいやつが得して来たのは小学校でも経験してきた。案外言ったもの勝ちな世の中なのである。

きっと彼らはこの、「遠慮」を持たないこそ、自分が欲しいものを手に入れているのだろう。

この言葉を聞いたときに、12月に参加したハッカソンの開催者である、とある企業の社長さんから言われた、「君はもっとプライドを捨てた方がいいよ」という一言を思い出した。

僕は自分に誇れる過去もなければ、今の自分に自信もない。その言葉を受けとったときは「いやもう捨てているから」と思っていた。

しかし思えば、Mさんに会うのが怖いというのも自分のプライドを守ることからだったのだろう。「対等に話せない」「僕に会う時間が無駄だと思われたくない」というのも恥をかきたくないという気持ちから、プライドを守るためだったのだろう。 「遠慮」は自分の「プライドを守る」ことから来ていたのだ。「プライドを捨てろ」というのは「遠慮をするな」ということも含まれているのだろう。

事実、今回遠慮をしなかったからこそMさんという人に出会え、貴重な話を聞かせてもらえた。そして、図々しくもMさんのコンサルの先生に会いたいと言ったことで、今度オフィスに遊びに呼んでもらえた。 いまの自分に図々しさを持つ勇気はまだないけれど、恥をかくつもりで話を聞きに行こうと思う。

指を詰めます

昨日で仕事納めで、今日から連休が始まった。 休みだうれしいと思ったけれど、やりたいことが思いつかない。

起きてからすぐ、6時間ほど勉強したけれど、途中で集中が切れたので「よっしゃ連休だし何も気にせず、思いっきり遊んでやろう」と思った。

昔買ったゲームを引っ張り出して「ストレス発散だ」と思ってやり始めたが1時間もしないうちに飽きた。 散歩しようと思ったがどうも気が乗らない。 そういえばポケモン買ったんだと思ったが、ゲーム機を開く気力すら出ない。 何をやっても楽しくない。無限にタバコを吸うことしか思いつかない。なにもやる気が起きない。性欲も枯れた。

思えば最近、脳の報酬系が出ると感じるのがお酒を飲んでる時しかない。

つまらない。死のっかな。

社交不安障害だけどプレゼンに挑戦した

心理的な病は、薬では治らない。補助輪にはなってくれるが、薬を飲めば回復するわけではない。 治すなら自分から行動をしなければならない。社交不安であれば人と話す練習、人前で話す練習を重ねて緊張に慣れて行くしかない。補助輪はいつか取らなければならないのだ。

当たり前の話だが、医者にそう言われたので、今回人前で話す練習として有志(←ここ重要)のプレゼンに参加した。

発表前、緊張に怯えまくっていた。

手が冷たい。

唇が震える。

誰かに手を握って欲しかった。タバコを無限に吸っていたかった。

それでもなんとかやろう。そう自分に言い聞かせてプレゼンの場に立った。

しかし何が起きたのか。

意外と立ってみるとこんなものかと思えた。緊張しなかったわけではない。予定通り進んだわけでもない。 けれども、発表前に感じていた緊張よりも、実際に発表する際のそれは遥かに安かった。

なんだか落ち着けた。「こんなものか」 そう思えた。

発表前に、「緊張を味わう」ということを目標としていた。 練習を重ねたのは失敗したくなかったわけではない。頭のメモリすべてを「緊張を味わう」ことに割きたかったのである。緊張をはっきり味わうことで、それに慣れていきたかった。

しかし、本来掲げた目標は果たせなかった。「こんなものか」と思っているうちにプレゼンは終わった。 なぜ落ち着けたのか。結論は出ていない。 事前準備や練習を死ぬほどしたからか。緊張を抑える薬が効いたのか。わからない。 だけど人前に立つ勇気が少し湧いた。こんなものなら次もやれそうだと思えた。

今後、緊張に怯えることが減って行くのだろう。そういうポエム。

街コンに行って来た

行く前々日あたりから士気がなくなったのだが、当日は金のもったいなさと人と喋る練習になるかなと思って行った。

結論として、行かない方がよかったな、と思った。

僕が参加したのは少人数である代わりに1:1の時間が必ずあるというもの だったのだが、 行ってみたら、女性の参加者半数が当日キャンセル。キャンセルせずに来た女性の中に自分のタイプはいなかった。

帰宅して思ったことは、今回少人数街コンに参加したこと自体が間違いだった。

1人と長く話せることは少人数街コンのメリットである一方、自分のタイプの人に出会える確率が低い。大人数はその逆。 両方を天秤にかけた時に成功確率が高いのはやはり大人数だろう。

そもそも少人数の街コンに来る人が美人であることはかなり少ない。なぜなら美人は男の方から寄って来る。わざわざ1:1の時間を自分からつくる必要はないからだ。大人数の街コンの方が選り好みできるのである。そもそも美人は街コンには参加しないのでは?

加えて、当日キャンセルというリスクが少人数には痛すぎた。人数が半分に減るということはチャンスが半分に減るだけではない。倍率もその分跳ね上がる。これは少人数街コンんの最大のデメリットだろう。

反省として、少人数街コンにはもう行かないことと、元カノを忘れたいがために無理に恋人をつくろうとしないことの2点。肝に命じます。

受け売りでもいい、しかし”翻訳”せよ

また「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本の話になる。 というのも、僕は今、この本をもう一度読み返してノートを取っている。そこで新たに響いた箇所がある。それは、本書中における「文章を書く」とはなにかの定義でもある、「文章を書くこととは、”翻訳”することである」という1文だ。

”翻訳”とはなにか? われわれの頭の中は常にたくさんの”感じ”や”思い”が駆け巡っている。 しかしこの”感じ”や”思い”というのは言葉ではない。言葉以前の茫漠たるものであり、当書では頭のなかの「ぐるぐる」と呼んでいる。 この「ぐるぐる」を実際の言葉に”翻訳”することが、書くことの第1歩なのだ。

僕は、この”翻訳”という過程は、”理解”することと同義ではないかと思う。つまり、”翻訳”をすることによってはじめて、われわれは受け取った物事を自分のものにできるのではないだろうか。

なにか自己啓発本やビジネス書を読んだ後に、「ああ、そうか!」「たしかにその通りだ!」と思えたとしよう。しかしその時点では、われわれはまだ理解していない。まだ、”わかった気”にしかなっていない。 なぜなら、知識を入れただけの段階ではまだ、頭のなかの「ぐるぐる」にしかなっていないからである。他人の言葉は直接自分の言葉にはなり得ない。その人の主張や例えは、彼らの経験からくるものであり、彼らの「ぐるぐる」の”翻訳”でしかない。その”翻訳”を受け取った時分でまた、私たちの頭のなかの「ぐるぐる」に変わる。その「ぐるぐる」を自分の言葉に再”翻訳”する必要があるのだ。 (得た知識をあたかも自分の知識のように講釈をたれる人がよくいるが、その人の言葉はどこか薄っぺらい。これはまさに”わかった気”になった人の典型例だと思っている。)

エンジニアの世界でも、「新たになにかを学んだときにはQiitaに記事を投稿せよ」と言われている。(Qiitaとはエンジニアの知識共有サイトである) これは忘れないようにメモをとるという意味でもあるが、自分の言葉に”翻訳”することで真の理解に落とし込むという意味もあるのだろう。アウトプットが最大のインプットなのだ。

本来はこの本を読んだ際に、自分の言葉に”翻訳”しようと思って書き始めたが、長くなったので次回以降に譲る。いや、”翻訳”することを”翻訳”したのが今回なのかな。

一昨日、ポケモンのウルトラムーンを買った。彼女に振られた悲しみでぽっかり空いた穴を、ポケモンでしばらくは紛らわしたいと思う。その意味で最初のポケモンに「スキマ」と名付けた。ゲームクリアまではスキマちゃんが僕の恋人である。ちゃんとメス厳選もした。今作ではポケモンを撫でる機能があり、スキマちゃんを撫でて「ここが良いのか?えっ?よしよし」って言ってると本当に癒される。僕はいま幸せです。たぶん。

社交不安障害

僕は、それらしい。医者にそう診断された。

簡単に言うと、誰か人といると過度に緊張をしてしまう病気である。 それゆえ、大勢の前で立って話をすることは大の苦手である。また、1対1の会話でも、相手が何を考えているか、相手が何を感じているか、自分の言動で相手にストレスを与えていないかを勝手に想像して頭がパンクする。 好きな人の前だと緊張して上手く話せない、というのが、相手が誰であっても常に僕には起こっているのである。

誤解して欲しくないのは、人が嫌いということではない。 むしろ僕はひどく寂しがりな性格であり、いつも誰かそばに居てほしいと思っている。まったく矛盾する、めんどくさい性分である。うさぎだからね。

診断が下りたのはクリニックに通い始めた今年からだが、患ったのは中学生の頃だったと思う。小学生までは人前に立つのが好きで、部活動でキャプテンをやったり卒業式の呼びかけ(伝われ)で最後のセリフを任されたりした。 しかし、きっかけは何かわからないが、中学生のとき、「いつも挙手をしてくれてえらいね」と先生に授業中言われた際に、なぜだか一気に注目を浴びているようで恥ずかしくなった。それ以来授業中の挙手ができなくなったのは覚えている。それが1番最初の発症だろうか。

社交不安障害の人間が苦手なことの1つに”自己開示”がある。自分について話すことが苦手なのである。 他人なんて自分に興味ないのに、自分の話をするのは恥ずかしいことだと思ってしまう。自撮りをTwitterに上げたりなんかしたら、踏み切りを1日中見つめてしまう。

さて、そんな自己開示が苦手な社交不安障害の僕が、一番隠したくなるような病気のことを記したのには理由がある。

最近、彼女に振られたことがきっかけで、酒が入っていた勢いもあり、大学の先輩に大きく泣きついてしまった。それも結構な人前で。 次の日になって、布団に顔を埋めに埋めた。大声を上げて泣いて注目を集めた上に、自身の弱みを大きくさらけ出したのだから、社交不安障害でなくとも顔から火を噴くだろう。

しかしそれ以降、不思議とその泣きついた先輩をはじめ、その場にいた人たちと会話をする際の緊張が大きく解けた。今まで会話をする際には相手の視点ばかりに頭が行っていたが、自分の思考に焦点が当てられるようになった。 頭のメモリが緊張で圧迫されていた分 容量が空き、自分の話したいことが少しずつ話せるようになったのだ。

それ以降、こう思うようになった。

社交不安障害だから自己開示が苦手なのではなく、自己開示をしないから社交不安障害なのではないだろうか。 事実、対人関係療法の治療場面でも身近な人に自分の病をさらけることで改善されている。

とりあえず少しずつ自分のことをさらけ出すことから始めていこうと思う。

いつか人前で演説ができるようになれたらね。いいね。ぴょんぴょん🐇